科学という思考停止の枠組み

昨晩、テレビのチャンネルを変えている途中、「爆問問題」で高井研とかいう地球微生物学者が出ていて、熱水鉱床なんかに見られる熱エネルギーが交換されていく中で生物が生じたなんてことを話していた。そうやってかき混ぜることが継続することで生物が発生し続け系統的に発展したのだなんとかいう話だった。
おもしろいなあと思って聞いていたが、ちょっとひっかかった。ひっかかったことをそのまま大田が聞いた。
「どうしてまざろうとするんだろう」なんてことを聞いた。
すると、高井は、そこは科学の領域ではないという言い方で返した。その挙げ句、例えば、絵画を見て美しいと感じたらそれは科学では説明できないので、それはそれでいいじゃないかと言い、大田は、なぜそれを美しいと感じるのだろう、何か理由があるはずだと突っ込む。高井は繰り返し、そんなことは科学の仕事じゃないと言い張る。
この議論、というのか、そもそも議論になっていない。
高井が科学と呼んでいるのは、秩序だったある種の法則の理解であり、その証明や分析、あるいは、単純にデータの収集である。仮にそこに洞察があったとしても、個々の事象の関連を明晰にするばかりで、それ以降には踏み出さないとの言い方だ。それは、宗教だ。神の領域はふれない。神学以前の考え方で、美醜の問題について問うのが科学ではないと言われるとテツガクの仕事はいったい何なのかと聞き返したくなる。科学とは、なぜ、どうしてを徹底して問いつめる態度を差すと思っていたのだが、その先端科学者にはそうではないらしい。彼は、きっと倫理に対して実に鈍感であるだろうと予想された。
大田の問いが全く意外性も何もなく、普通に感じる問いであるからだ。
そうした理系のみなさんが文系を下流に見ているとしたら、どうにも語るべきものを持たない。旭化成のCFで福山が言っている文系、理系も奇妙なところがある。彼が演じるダビンチは、既知を集めて事象を分析し、そこからある論理的結論を導く。決してそれまでのものを解体することなどなく、ある構造的論理をもって事象を説くに過ぎない。それは、ことばの構造から逃れられないが故にことばを超越していくものを何とか描ききろうともがくブンガクの苦しみに価値を感じない仕種だ。
外科医や科学技術者など、技術的な天才を称揚するドラマの何と多いことか。