そば打ち体験

毎年頼まれているそば打ち体験。生涯学習の展覧会や体験コーナーのひとつで無料とあって子どもたちやらたくさんやってくる。
今回も開始早々に30名の枠が埋まってしまった。いつもは少し余裕を見てしまい時間オーバーしてしまうので、本当に30名で締め切った。
やり方がずいぶんこなれてきたので、だれにでも簡単に確実にそばにしてもらえる。そのあたりは教え方の問題よりも、そば打ちの仕組みの問題だろう。相変わらず乾燥が激しく、いれてもいれても水が足りない。しかし、水回しだけはいい加減に済ませられない。ここにこそそばの真骨頂があるのだ。
何人かはどこかでそば打ちをしたことがあるという。そういう人によく見られる傾向は必死でそば粉をくくろうとするのだ。これがいわゆる「つながらない」結果を招く。ボクらの方法でそばの状態にならなかった人など皆無なのだが、そんな「つながらない」体験を持っている人は実に多い。ひび割れさえないのに。何が違うのかというと、水回しとそばこねを混同しているのだ。水を粉全体に含ませる仕事が「水回し」であり、こねるのはそれから。うまく水回ししてしまうとこねるのはわずかな時間で十分。のしも十分に行えるし、また、切りはどうにでもなる。
そば打ちが「できる」ことと、「教える」ことの違いがわかる瞬間だ。しかし、それ以上にそば打ちを「学ぶ」ところに行くにはもういくつかのモチーフが必要かな。
のした後、ふっと息を吹き込ませると中学生女子が弾けるように笑い喜んだ。ああ、こういうことをちゃんとやらないといけないと思い知らされた。学校の先生に見せたい姿だな。
久しぶりに帰ってくるお父さんに食べさせるという子どももあった。
数時間後、20キロメートルほど離れたスーパーで出会った子どもがボクに気付いて手をふってくれた。若い頃の佐々木健介のような髪型をした少年だが、無邪気な笑顔に一番の謝礼をいただいた気がした。
同時にストローカイトのブースも開店。こちらは担い手がいない*1ので、後輩の教育委員会係長にやってもらった。彼も何かの手応えがあったようで、うれしそうに子どもの様子などを話していた。
ボランティアはだれかのために何かをするというのではない。何かを分かち合う体験であり、そのことは自分の生き方を広げる役割をもっている。何度やってもうまくいかない部分があり、少しずつ工夫を加えてきた。また、新しいものを見せてもらった気がする。忙しいのだが、オファーがあればのこのこでかけるのはそういう理由だ。自分だけで高まる資質など、どこにもない。あると思っているとしたら、それは慢心である。自重も含めて。

*1:昨年担当してくれた教師を目指していた奴は、教師になったらなおのことまた取り組んで欲しかったが、所用で来られなかった