緑を守れ

毎朝新聞は欠かさない。Web2.0で新聞がなくなるという報道なんかもあったが、それはないだろう。新聞の有り難い機能は、自分が特に興味を寄せていない項目もちゃんと書かれていることだ。ネットでは興味の赴くままに情報を拾っていく。新聞の特徴とは違うのだ。新聞に出ていることが完全にネットで閲覧できるようになっても、目に入ってくる情報に思考の何かをひっかけるような仕種は新聞の命脈を保つに違いない。スポーツ紙のエロネタでさえ何かの手がかりになる。
そういう機能を持っている記事のなかでも投書欄は比較的読み込む。そこに時代の空気や雰囲気が読みとれることがままあるからだ。投書とてそのまま掲載されるわけではなく、何を掲載するかの選択が記者にあり、また、表現も直される。表題さえ記者によって当てられることが少なくない。そのため、ここはおかしいとか、題が合っていないという例もある。常体を敬体に直されることさえある。投書者の主張から空気が見えてくるだけでなく、記者の意図にもそうしたものを読みとる香りが混じっている。
投書ではときどき前に掲載されたものへのフォローや反論が出てくる。たくさんの投書からそうしたものが選ばれていく過程などを想像しながら連ねて読めるとおもしろい。今は新聞社のサイトがそんな仕組みをもっていないので、自分の記憶だけで拾っていくのだが、以前はスクラップもしていた。なかなか面倒なので、そんなことするよりもこうしてブログに書き込んでいく方が楽で、こんなどうでもいいことをしきりに打ち込んでいるわけだ。
先週は、もうこれ以上(高速)道路は要らないという趣旨の投書があった。これで十分だろうという感覚である。見ると首都圏の方。例えば、日本海を縦貫する高規格道路がなかったり、日本海側と太平洋側をつなぐ道路が不十分だったり、新潟から東京に行くよりも隣県の山形に行く方が時間がかかるという不具合をどうやらあまり意識していないらしい。この国の道路網は、東京には行きやすいが、そうでないところのいわば横移動ができない。鉄道も同じである。しかし、東京にいれば方々に合理的に移動できるのだから多くの不便を感じないのは当たり前だ。どうして、そうした発想になれないのかが不思議で仕方がない。「無駄遣い」は自分に関係のないものに当てはめる考え方なのだろう。あなたが毎日スーパーで目にしている多くのものがその道路を通じてそこに届けられていることに全く鈍感らしい。
その投書に反応があった。圏央道のことらしいが、新しく開通した道路を使って遊園地に行こうとしたら道路のためにたくさんの森を切り払ったことに気付いた。そういう道路なら要らないという趣旨の投書だ。木を切らないことが環境保全につながるという単純な発想で小学生かと思ったらいい年齢の方だった。合理的な移動を創出することでむしろ環境にとって負荷が少ない場合がある。この場合はどうかはわからないが、あまりに一面的な言い方に最近のマスコミ言説を見る思いがする。
三平を尊敬していた人々があの海老名家の離婚会見を見ながらどう思っただろうか。三平の芸は評価できても、その家族を無条件に受け入れ、そこに何かの血や伝統を見ようなどとは思わない。が、ああして記者会見を受け入れてしまうことで何かを狂わせてしまっているような気さえする。
今朝のTBSで稲尾にふれ、浅井慎平があまりにも日本シリーズの4連勝のことばかりでてくるので辟易していたのだろう。あるいは、小倉の言い方にでも腹を立てたのか、記録で見てはいけない。戦いそのものを見つめて欲しいと話していた。先日のACL決勝も結果だけなら2−0。しかし、2点を取ってからの戦いは終始緊張感に包まれていた。それを共感することなく、2点差で勝ったと言い放つのは、道路が延びていくのが無駄遣い、木が切られたから環境破壊と言い切ることとその言い方への共感と相まっていささか一面的で、単純で、乱暴にすぎる。