糸井の本

糸井重里の「誤釣生活」を読み終える。
読むったって、便所においといて大便の間だけ読む。
うちはとても狭い家なのだが、便所だけは明るく適度に広い。なかなか滞在心地がよいのである。
糸井重里の感覚をことばに紡いでいく仕事はわりに好きで、ボクらの生活のいたるところに価値が埋没していて、小さなことばをあてることでくらしのプライオリティに帰属させつつ、豊かであると、それは実際にリッチでなくてもいいんだけど、そう感じさせていく振る舞いが生まれる。釣りにおいても糸井の感覚はそういうところに向けられていて、釣り人である糸井というよりも、糸井が釣りをくらしに取り込んだときにどんな言説に気付き始めるのかというあたりに、ぼんやりと期待感を持ちつつ、105円を愉しむのである。
案の定、おもしろくないわけではない。
が、さらに案の定、書けば書くほど釣りのことを懸命に書こうとしてつまらなくなってくる。釣りそのものの話はどうでもいいので、釣りを知ってしまった糸井が、初めて抜いちゃった中学生のごとくに、何を見てもおかず状態のなかでどんなことをカミングアウトしてしまうかに興味があるし、また、そうでなければならないのだが、やっぱり、釣り師として四の五のぬかしてしまう。それは、ボクも全く同じで、内心実に恥ずかしく感じていたのだが、糸井でさえそうであることには、いくぶん安心感というのか、案外、風下にあるわけではないことも感じてほっとしているわけだ。
ことばだけ拾っておこう。

私は、考えること、感じること、このふたつだけは、名人や達人に近づくようになってみたい。

ここは、ボクも自信がある。少し違うんだけどね。考えること、感じることだけは、名人や達人と同じように問いかけ続けたい、とボクの場合は表現できる。そのため、金をかけなかったり、釣果に結びつかなかったりしている。

やがて消えていく魚を、やがて消えていく私という人間が、釣りに行く。
これを遊び(ゲーム)と呼ぶ。私は。

このごろ、遊びまで子どもに教えなくてはならないと言う困った言説が広がっている。今の子どもたちは遊べないので、その遊びを年寄りや年長者が教えるという不遜なものだ。余計なお世話だ。遊び方が教えられる技術になった時点で多くの魅惑を失う。見つけるからおもしろいし、遊び「方」などその都度決めればいい。そんなことするから、今生まれようとするものに感受性が向かわず、あるもの、みながそうだと認めているものを追認するような安直で愚鈍な発想に迎合するわけだ。
ほら、ああいうやつ。
どこかで安売りをしていたのをあとから知ると、別に買いたいと思っていたわけではないのに損をしたと思ってしまい焦る奴。民主主義を平等、あるいは公平分配主義だと勘違いしているやつだ。それこそが、今日山主義でしょうが。あ、すごい。変換しないな。共産主義でしょうが。
遊びにはこのような「せつなさ」がどうしても必要だと、実存主義的山川野遊び人は考えるわけであり、方々でそのように講演してきた。ストローカイトは強すぎる風と期待感には弱く、壊れてしまう。たき火の夜はやがて薪が尽き、朝がやってくる。川の夕暮れはその熱狂をわずかな時間しか開かない。ゆえに、愉しい。ゆえに、サスティナブルである。
子どもから遊びを奪っているのは、お節介で、物わかりのよさそうな顔をして近づいてくる子ども主義者である。
二十世紀少年」に、子どもの遊びは終わらないと書いてあったような気がする。決着が付く前に世界が変容してしまうのだ。釣りはまさしくそのことに一生つきあえるものなのだろうと、そんなことを久しぶりに考えてしまうきっかけになった105円であった。

誤釣生活―バス釣りは、おもつらい

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