政治的手法

毎日、大臣や副大臣政務官がニュースに登場するというのはまさに未曾有の出来事。脱官僚というのは、官僚に何もさせないという意味ではなく、政策決定をするのは政治家だという意味なのだが、これまでのところ新政権はかなりやっている印象をもっている。それでも、40兆円を下回る可能性が高い財源不足をどうこうするのは難しく、野放図に放漫経営してきた先代の尻ぬぐいが実に厄介であることがよく見えている。もっとも、多くの報道は、そら見ろ、できないじゃないかとやっているが、リビルドなんてそんなものだ。よく2ヶ月でここまでたたいた。
もっとも、ポリシーユニットの立ち上げの遅れから理念の大綱と、戦略のベクトルと強さを出し切れていないが、それとてマニフェストが元々あるわけだから大きな問題になるはずがない。具体的なロードマップが示されてマニフェストの中でも軽重、あるいは、危急なのかそうでないかのラベリングをしっかり行わなければ、肥大化した政府が生まれる可能性がある。
ところで、これまで私たちの社会は「政治的」ということばにいささかの侮蔑を込めて揶揄してきたのではないか。合理的、論理的に考えることや民主的な手続きを取ることの対極に「政治的」と言い当ててこなかったろうか。何か理不尽な権力、多くの手続きを一気に払拭してしまうような乱暴さをそこに含めて、どこかあきらめの表情さえもっていた。
最近の政治の動きは、事務次官がこのままでは政治家が過労死するというコメントを出しているくらいに政策実現に向けて激しい。地方は大統領制をとっているためそのままというわけにはいかないが、地方議会にこうした流れが波及してきて、いよいよ身近な地域の政策は市民自らが議会を通して作っていくのだと手法が変わっていけばいい。地方議員とは何かという問いかけがここから生まれればいいとは思うのだが、この間町議会選挙の候補者が日の丸を付けた必勝という鉢巻きを着けているのを見て、まだまだ八紘一宇の世界像から抜け切れていないのかもしれないと思った。