想像力欠如の「浅層社会」

裁判員裁判で、今日、初めて死刑判決を出した。裁判官が被告人に控訴を促すという前代未聞の判決言い渡しではあった。事件そのものは想像するにあまりあるほどに残虐だ。詳細は正確なことも知らないので書かないが、生きている人間の首を電動ノコギリで切断したのだという。
裁判員に死刑判決は影響が大きすぎる、責任が重すぎる、素人には無理という意見が今日のお昼から次々に流れている。自分がもしそういう立場になったら一体どういう心情でいられるのかを考えると、そんなことばが出てくる。確かにそうだと首肯する反面、裁判員制度はどういうことだったのかを思い出す必要も出てくる。
残虐、極刑妥当とも思える事件に、死刑廃止の風潮も手伝って無期刑、あるいは、長期の限定的な懲役、禁固刑の判決が出る。世の中は、裁判がおかしいのではないか、裁判官は世の中の人、とりわけ、被害者家族のことを酌量し切れていないのではないか、法律の専門家が、法律だけの専門家に陥ってしまっているのではないか。法律の適用もさることながら、市民感情をしっかりとふまえて、そうしたものを丸ごと含んだ判決、司法に変えるためにも、裁判への市民参加が必要なのではないかと検討され、法制化されたのが裁判員制度である。背景には、ごく単純に「こんなやつ死刑だろう」という感情が、口に出さないまでも横たわっていた。
それなのに、いざそういう裁判が始まると、むごい、酷だとなる。あれだけ、死刑の犯罪抑止力や法の断罪の甘さを喧しく叫んでいても、いざ当事者となるとこんなものだ。
だれかが断罪してくれるのはいいが、かかわりたくない。正直な心情だろう。
こういう言説があふれ出すと、裁判員制度が、主権者たる市民一人一人を社会的な手続きの当事者にしている効果がはっきりと読み取れる。賛成、反対、いずれにせよ議論が巻き起こることは決して不毛ではない。議論は、尽きるものではないが、とにかく尽くせばいいのだ。
おかしいのは、こうして判決が出たタイミングで議論が起きている点だ。なぜ、法制化の途上でこうした議論が生まれないのだろう。なぜ、この程度のこと想定できなかったのだろう。無論、新聞紙上に論争はあった。しかし、市民がこの事態に直面してからしか問題を見つめられない。いつから、これほどに社会は「浅層社会」に成り果ててしまったのだろう。
以前、こうした社会の反応を「単音的(モノフォニック)社会」と名付けた。ボクが使う以外に全く広がりのないことばだが、今もってけっこう言い表すに都合のよいことばだとも感じている。この頃の世論の反応は、この頃といっても小泉政権までさかのぼってもいい。あまりに単純で声高なものに惹かれてしまうのだ。過剰に反応し、広がりなく収束する。そのため、いわゆる「盛り上がり」を維持するには、単音的なものを羅列するしかないのだ。それは一方で「浅層」である。
例えば、教育現場にも多く取り入れられているディベート。幾多の論争を積み上げて勝ち負けを競う。そんなものはゲームであるのに、あたかも、ディベート的な結論を得ることが社会的な合意であるかのような誤解さえ生まれている。そのため、議論は勝ち負け以外の想像力を欠いてしまうことも少なくない。故に、議論があったはずなのに、どちらかに傾いてしまった1つの軸しか見えなくなって、表面に問題が浮かび上がるまで気付かないという、ごくつまらない言論が横行してしまったのだ。今、最も深層を付くのは、東京スポーツかも知れない。それは、限りなき想像力を読者と共有、ときには齟齬によってさえ議論を生むからだ。
どこに原因があるのだろう。何が基になっているのだろう。どこから組み替えればいいのだろう。
その契機は、当事者とは誰かという問いかけで思考してみたい。
また、いずれぎっちりと書いてみよう。