政治と行政

震災の被害を受けた方のことばを聞いていて、少し違和感を感じたことがある。状況を真摯に考えておられる方で、お寺のご住職のようで、お盆を迎えてどう対処すればよいのかひとつひとつ丁寧に問題に向き合っておられることがよく伝わるインタビューだった。その内容は、報道としても適切だったのだが、なかで使われたことばにはっとしたのだ。
「行政に頼るわけにもいかないと思っているんです」
ああ、そうだなと思った。そうだなというのは、まず、何か過度に依存しない態度への共感。もうひとつは、行政ということばだ。ここでは、おそらく地方公共団体を指しているのだろう。市町村のことをそのように言い表す例は少なくない。そこに違和感をもったのだ。
政治主導と言い放って華々しくマニフェスト選挙を掲げて、それまでの政治体制を変革させたのが現在の政権与党だと、表向きの政治学的には表現してよいのだと思う。強引とはいいながら官僚機構からイニシアティブを引き上げて、何とか自分たちの力で回そうというのは、いささか生徒会的な部分はあったにせよ、この国の民主主義とか、主権政治というものを本来の場所に置くべきという考えとしてあり得るものだと考えていたし、それがどこまで実現できるか、その道筋にいささか見通しの甘さがあったにせよ、私たちの社会のありようにしていこうという発想は理解できた。
しかし、そのことが震災後の混乱を引き起こしているという指摘や、政治が主導することなど到底できそうにないと思わせる国会や与党野党の混乱が、その道筋の困難さを感じさせている。
そのなかで、「行政」という表現だ。何を感じたのかというと、地方に「政治」がないということだ。政治を国に任せて、地方はその追認、そして、地方政治の担い手であり、主権たる市民の権威を代表する地方議会は「政治」を行えず、「行政」の監視に留まっているという、政治の変革が地方に及ばず、この意味での国と地方の「ねじれ」があると、そんなことを感じた。
こんなことがどうして戦後の社会の中で、日本国憲法の中で延々と繰り返されてきたのだろう。震災後の社会の動きの中で、たしかに地方議会の動きは見えない。報道の偏りで見えないだけかも知れないが。
そう思っていたら、うちの倅が学校にいた頃のことを話し出した。学級会の話だ。「大事なことだから全員賛成するまで話し合いを続けます」と先生は話し、同時に、議長もそう言い、議論は承伏しない特定の人をみんなで説得する形になったというのだ。そうして、そいつが折れて全員賛成。めでたく議案は承認された。こういうのを民主主義というのか。なるほど。金八に口説かれると、折れるも何も、心だって砕けるわな。この民主主義が教育にまかり通っている間は、政治主導などあり得ないのかもしれない。