価値の認定

ある報告資料の検討会で、資料を作成してきた人が、込み入ったり、分かりにくかったりしてくると、別の人の名前を出して、だれそれさんもこういっていました、だれそれさんはこのことが大切だと言っていましたと話す。こういうことは、しばしば見受けられる。
ランキングの上位は価値があるものというクオリティの認定の仕方は今に始まったことではないが、多くの人、あるいは、どこかの権威に認められていることが価値であるという感覚は、いよいよ若い人に顕著になってきているように思う。不確実性の時代などと呼ばれたのはもう四半世紀以上の昔なのだが、当時よりもいよいよ価値がふわふわと漂っている。
糸井重里が、クオリティではなくプライオリティだと言い放ってから随分になるけれど、すべての権威や権力を無化する格好の武器にはなったし、僕らが徒手空拳で振り回し、あたりちらしてきたのは、そういうワザだったのだと自覚させてくれたわけだけれども、権威的なものに体質的な嫌悪感をもっているならそうはならなかったのに、むしろ、権威とか序列に媚びるような連中には、この武器もワザも奇妙な使われ方をして、案外、どうでもいいことの価値をあたかも絶対的なものであるかのように見せかけるしぐさに転じてしまっている。
前述のような議論は、党派にはよく見られた。ことばに個が責任をもつような時代にあっては駆逐されるのだと考えていたが、いよいよその傾向は強い。自信がないのか、あるいは、そもそもそこまで自分で考えていないのか。
今の自分と同じくらいの人々に噛みつき、蹴散らしてきた不遜な自分を振り返ると、礼節わきまえて、自分の主張だけでなく、調和的に進めようとする態度とも思えるが、少なくとも、自分のことばを他人の姿を借りて価値づけようと考えているのだとすれば、姑息としか言いようがない。