一票の格差

一票の格差をどう克服するのか。地方と大都市の間には、何倍もの格差があって、大都市の人々の主権は正しく行使できない状態にあるという。そのことが、政治への参画、つまり、主権者たる意思を表現しにくくなっているともいう。ところが、その格差を修正しようとすると田舎では現行の都道府県単位を超えない議席配分ができなくなるという。しかし、主権の行使は憲法上、国家の成り立ちに関わる問題だから、それもやむなしという。大都市に議席が集中することがあっても、大都市が地方に配慮することで均衡のある発展は保証される。そういう意見をラジオで聞いた。票の格差をどうこうしようという団体の人らしい。都市の投票率イチローの打率程度になっているような現実を目の当たりにすると、大体同じくらいじゃないかとも思えたり、その程度にしか使えない主権にそれほど嫌気が差しているのかなとも思う。
だけど、そうだろうか。都市は田舎なしには成立しないのだからと配慮するのだろうか。いや、未だ嘗て大都市が地方に配慮したことなんかあっただろうか。東北がいつまでも東北であり続けて、都市に資源を供給できなくなっている逼迫した現状はなんだろう。都市と田舎を結ぶために、田舎が躍起になってアクセス手段を作ろうとするのはどうしてだろう。今のままの地方であり続けよと叫ぶのは簡単だし、小さな力が押しつぶされるのは簡単である。それを制度の問題ではなく、配慮とかいう掌でどうこうしようというのが、そういう制度改革を目指す団体の人の口から飛び出すことに、強烈な不和を感じる。
主張の一つに、都道府県の枠組みを外してもかなわないだろう。諸外国もそうしている。外国のことは知らないが、都道府県単位というのは、思いの外根深い。地形に文化、生き方、食べ物、くらしぶり、気質そういう諸々が意図的に、あるいは、自然に系統を作ってきた。それをまたぐ代議士を選出するのは、主権を行使することの不平等よりも社会の解体につながりかねない冒険である。解体されるのは、この改革の場合、田舎であることは決定的で、もはや、民主的手続きを経た政治への参画さえ疎外されてしまう。その主張をする人が、もしかすると、山形も秋田も新潟も同じように見えているのかも知れない。それだったら尚更のことだ。
解決の方法は簡単である。一番小さな選挙区の議員一人あたりの人口を決めて、それを1単位として議席を配分すればいい。それだけのことだ。一方で、そんなに議員を増やすとコストがかかりすぎるという。今でも議員を減らそうとしているくらいだから。いや、しかし、民主主義という国体の護持に関わるコストである。そんなコストは受け入れるべきではないのか。この国の成り立ちがそのようなことを前提にあるのだから、それにかかわるコストは、公共的なコストであろう。では、それがなぜできないのか。
ボクには頭が悪くてわからない。議席を減らすことで政治的な揺れを大雑把な波形にして大波を起こしやすくするのかもしれないし、いや、そんなことより根回しや選挙資金の配分に面倒や膨満感がなくなるということかもしれないし、そもそも国民は、政治家が増えることに嫌気を指しているのかもしれない。あ、そうか、パイが小さくなるものな、議員が増えると。いや、でも頭が悪くて、解答としては違っていると思う。