唐松岳

本格的な山登りというのがどんなものかはよくわからないが、小屋泊りというのも、山旅の楽しみのひとつには違いない。小屋ごとに様子が違って、山で寝起きするからこその風景も味わえる。長い行程に宿泊を余儀なくされる場合もあるが、今回は、久しぶりに手軽に小屋泊りを楽しもうと、アプローチの楽な唐松岳にした。唐松頂上山荘は富山県に建っている。地元というとおかしいが、黒部川を横切る時に晴れた日には唐松岳を眺めているわけで、向こうからこっちを見たいというのも動機のひとつ。
黒菱林道を使って、八方池山荘前でグラートクワッドを降りたのが、午前9時40分。雷の予報が出ていて、少しドキドキしている。入道雲は盛り上がり、午後に入ると相当に剣呑極まりない。すぐに、八方池山荘で登山届けを出し、ゆっくり歩き始める。八方池までは、何度かきたことがあるのでそれでもけっこうな速度で進んでいるらしく、第三ケルンに着いたのはまだ午前11時前。いよいよ雲は暑くなってきて、雲間の日差しは肌にきつい。
花がきれいだが、撮影は下りにゆっくり楽しむことにして、とにかき、先を急ぐ。丸山ケルンで昼食の予定だが、雪渓下の沢筋で少し腹にいれる。何しろ暑い。沢には水がない。山小屋も水が少ない場所なので、今日はたっぷり背負っている。その分、汗もかくが、水さえ確保できれば万が一ビバークになってもやり過ごせると踏んでいる。
心配症なのだろう、けっこう装備は担いでいて、ツェルトもロープもある。あ、コンロがないな。近所にボンベを売っているところがないので、つい、すぐに食べられるものばかりになっている。灯油コンロでも出してくるか。尾根筋で雷雨に遭うと目も当てられない。何とかお祈りしながら進む。
下の樺の大きな樹木に驚き、また、上の樺のお花畑とガレ場の樹林帯という様子に戸惑いながらも、山の姿を味わう。日帰り可能な山である。早がけするほどもなく、唐松の山頂を折り返せるだろうが、こうやってゆっくり歩くことで見えてくる風景もある。頼まれてお客さんを連れて歩く山やとにかく高さを稼いで滑り降りようという山旅が多いだけに、気分がすこぶる緩く開かれいる。その分、いろいろなものが見えるのだ。
八方池の辺りまでは、ハクサンシャジンやタカネマツムシソウが多いが、高度が増すと、まだまだチングルマやキンポウゲも多い。シモツケウイキョウやシシウドの組み合わせが絶妙で、まるで植物園として誰かが手を入れているようにさえ思える。岩も、雪も、雲も、風さえしっかりと風景をなしている。

樹林帯を抜けると、丸山ケルンが見えてきた。ここの登りがなかなかきつい。抜けるような尾根の風景が広がる。ケルンの少し上で食事をすると、五竜側に大きな黒い雲が湧き上がhってきた。早々に食べて出発。道はここから尾根の脇を切り開いた片落としのルートにはいる。高度も上がってきたので、ゆっくりゆっくりと進むと、目の前にライチョウ。驚くでもなく、ダイモンジソウを食べている。その角を曲がると、すぐに、小屋が見えた。午後1時。どうにか、雨に遭わずに済んだようだ。
小屋にはいると、あとはゆっくりと昼寝をして過ごす。光景はすべて霧の中で何も見えない。昼寝を明けると少し視界が出てきた。モノクロームの風景もいい。長崎莫人の水墨画のようだ。

黒部川を挟んで向こう側に劔立山があって、その向こうに富山湾がある。そういう場所だ。見慣れた山々を裏側から眺める。そういうものだろうと、地図の中で構成する。
夕食後、激しく雨が降ってきた。雷もすごい。今夜は、夕焼けを見ずに寝てしまう。小屋は幸い少し静かで、いい夜になりそうだ。
夜半、窓の外が明るく、夜明けかと思ったら、月。誘われて外に出ると、霧はすっかりと晴れ、月が輝いていた。夜明け少し前、窓を見ると霧。期待した風景が今日はダメかと思ったが、夜明けと同時に雲散霧消。厚い雲海の上に太陽が上ってきた。黒部川は快晴。黒部川の河口部にYKKの大きな工場が見える。





食事を済ませて、コーヒーを飲む。一杯一杯丁寧にいれてくれたおいしいコーヒーだ。案外低い場所に見えている劔を眺めながらゆっくり、大きく息をする。あの山にはきっと一生登ることはないけれど、こうやっていろいろな場所から見るのも悪くない。そんな山旅があってもいいだろう。

荷物を預けて、唐松岳の山頂を往復。テン場で過ごした人が上がってきて、今日は鑓温泉まで行くという。昨晩は、天幕に映ってまるで空爆のような騒ぎだったという。逃げようとも思ったが、テン場からの登りが面倒で、引きこもったとも。鹿島槍からの縦走らしい。昨日は、五竜でひどい雷雨に遭ったという。やはり、あの雲は危険だったのだ。運が良かった。ありがたい。山頂にいらした方が写真を撮ってくれと頼んでこられた。いいですよとカメラを向けると、小さな写真額を出された。奥様だという。はにかんだように笑われたが、いっしょに山歩きをしようといっていた矢先に亡くなられたそうだ。山にはいろんな動機がある。いろんな人がいて、いろんな人生が交錯する。これだから、山はいい。人の深みを感じることができるのだ。山は動かない。人は蠢き、挙動の隙間から人生が染み出すのだ。来てよかった。妻の言葉には、饒舌ではないが、そんなものが詰まっている。
ゆっくりと下り始める。登りでは見えなかったものが見え始める。八方池山荘発の人たちとすれ違い始める。次第に、喧騒が戻ってきて、何だかあの風景から離れて行くのがもどかしく、もったいない。

八方池の少し手前でお弁当を食べる。山荘のお米がなかなかおいしい。米の飯とはいうが、これでなかなかいろいろなのだ。食事もよかった。部屋も、人もよかった。いい山旅になった。
息ケルンの公衆便所に来ると、メンテナンスのため使えないという。これで慌てた。ここから、八方池山荘まで駆け下り、漏らさずにやり過ごした。
無事到着。カフェテリア黒菱まで下り、山に一礼。今日も楽しませてもらった。ありがとうございます。
温泉は、みみずくの湯。日焼けどめの影響か、洗っても洗っても顔がすっきりしない。そばは、りきの予定だったが、休業で久しぶりに林檎舎。素朴な味を堪能。帰途、道の駅小谷でちゃのこを買う。おやきのようだが、生地はジャガイモのでんぷんとそば。土地の味わいである。これもうまいかそうでないかは別。どこかの山と山を比べても仕方がないように、それはそれで深いくらしを抱えた味がする。