輪島、門前町・手仕事屋

長男の野球の遠征を観戦。輪島へ。
試合が終わってからいつも近くに行きながら拝観していない総持寺へ。ここは、曹洞宗の総本山として長らくその権威を集めたが、明治の大火で多くを焼失。総本山は横浜に移り、ここには祖院が復興されたそうだ。しかし、今も当時の伽藍の一部が残り、多くの雲水が修行している。
臨済宗永平寺はよく知られ、観光地としてもたくさんの人を集めているが、それに遜色ないお寺で、ぜひ一度見ておきたかったが、期待にそぐわぬすばらしい場所であった。
寺院や社殿といったものは、そこに流れる空気すら違う。そのように建築されているのだ。ゆえに長い年月、あたかもその土地にとけ込むようにいっしょに呼吸し、そして、ともに気を育む。学校の建築もかくありたいと思わせた。作務を行う雲水の手際に感心していた。
さて、門前にそば屋があった。腹が減っているわけではなかったが、手仕事屋と書かれた看板に惹かれないはずはない。暖簾をくぐると、いったん火落としをしたところというが、盛りそばだけということで賞味可能となった。基より、盛りそばでよい。ぶっかけもいただきたいところであったが。
出てきたそばは、殻ごと挽きぐるみの黒いそば。見事に角が立って、輪島塗と思しきへぎと、わっぱであしらわれて、さらにアテ(あすなろ)が敷いてある。角に添えられた豆腐は、むろん、禅の食卓に欠かせないタンパク質。
そばは自然薯つなぎ。さもありなむ。山と海とが近く接するこの土地では、至極当然。五穀断ちをする雲水には、小麦粉つなぎは邪道である。五穀に蕎麦を入れないことで栄養を遠ざけるのを巧みに避けた僧侶の知恵に感心する。十割が、いや二八がといった議論は、そうした文化と民俗に一切立問の根拠を失う。
そこらなんだ。いつか、文句をいただいたそば屋さんの感想として書きたかったのは。商売をけなしているのではない。ボクはそういうなるべくしてなったそばなら、あの手コマでぞんざいにぶち切りされた新行のそばでさえ、ちゃんと味わい深く残るではないかと言いたいのだ。客を呼ぶのは調度であるが、調度には土地の香りが含まれているものだ。モーツアルトの楽曲ではない。
よそ道に逸れた。よい蕎麦だったので脱線はなるべく避けたい。
端正な良い蕎麦に合わされた豆腐が実にうまい。豆の味がはっきりと舌のあたりで立ってくるのだ。有名な五箇山豆腐などは、その固さなどの珍しさや濃厚さに特徴があるが、これは違う、見かけはまったく絹ごしであり、食感もそれに違いない。しかし、一度咀嚼すると、そこには豆を感じさせる。この豆は明らかに風や光を含んでいる。次回は、この豆腐と焼酎でよかろうと思われる。
そば湯でのしたときに、味わいが深まるよいつゆも印象的。少し甘い、こちらの醤油がそば湯で延ばすと一変して上品になる。潮汁を思い出した。
亭主に声をかけたかったが、こういうものは密かに思うものであって、露骨な批評はとりわけ寺門のそばには僭越である。