チームワーク

昨日の関東学院の勝利は会心であった。戦略が働き、戦術が機能した結果だ。序盤、ラインアウトを競り負けた早稲田は早々に敗色に覆われていた。
試合後、関東学院大学の監督が「スターは要らない。雑草に花が咲きました」と言ったことばはなかなかいいものだったが、「スターは要らない」の部分は少々余計だったのと「雑草にも」となっていたらもっと好きになれた。
そんなことを思っていたら、後輩とチームワークなどについて、ブログ上で少し議論になった。
彼のコメントにはこういうのがあった。

仕事はスタンドアローンの集団ではチームではないと思いますね。

ほおっと思った。スタンドアローンを孤立と考えているらしい。孤独感とか、スタンドプレーにつながる、「スタンド」として捉えているように思えた。如何にも人恋しがる彼らしいことばに思えて切なくもなったが、そのまま気にせず反論しておいた。
反論してから、彼が「チームプレイ」と書いていて、「チームワーク」と書いていないことに気付いた。似ているようで違う2つのことばを関東学院の戦いに重ねてふりかえってみた。
集団で機能することと、集団が機能することはよく似ているようで違う。
チームの一体感と一体感のあるチームも違う。
彼の使ったチームということばには、グループとか、同僚とか、助け合いが似合っている。パートナーやコラボレーション、そして、「なかま」にはそぐわない。
個と集団は逆立しない。集団、あるいは、社会があって個が機能するし、個がない集団はやはり機能しない。その思いはどこまでも継続していて、そのような社会とはどうあればよいのかをずっと考え続けてきたのがこれまでの社会生活だったとも言える。
彼の年齢とこれまでを考えたときに、ふとその頃のボクはどうだったのだろうと考えてみたら、テーゼとアンチテーゼを抱え込んだまま動き続けることによって差異を作り、その差異の位相をもってエネルギーとしていたような時代だったと思い出し、大人げなく突っかかっているのである。ホント、大人げない。
彼にはちゃんと言わなくてはいけなかったのは、支え合い、助け合うのをチームと表現するだけでは不足しているんだと。もっと、もっと、ことばを紡げと。不確定なことばでいいから、もがいて、もがいて、紡いでいけと。君の言っているチームとはそのままなら「なかよし」だよと。
と書いて、いつまでも先輩面しちゃいけないなと反省。所詮、彼の世界観に介在できるほどの力はない。
チームワークとは、戦略と対応して使う言葉だと思う。仲がいいことではない。そのことだけは彼に伝えたい。同時に、激しく厳しく立ち向かうものだけがほんとうのチームを作れる。
これは同僚にも聞かされた。
彼はバレーボールの選手で大学時代はそこそこ活躍して、現在はマスターズ水泳で県内を代表する選手として活躍している。彼が大学生の頃のチームはちょうどカテゴリーを上げる頃で勢いがあった。もちろん、戦略的な理解は必須だし、それに応じた戦術を身に付けるには必死である。そのときに最も重要なのは、実のところ、容赦ないコミュニケーションである。言えること、言いたいことを言い尽くす。その根底にあるものさえしっかりとつながり合ってさえいれば、同じものを目指すチームにとって対立など当たり前なのだと。その対立をうやむやにしたままでは、あるいは、誰かが誰かの足りない部分をカバーするような動きをしていると、結局、全体の動きが衰える。誰かのせいにはならないが、チームとして機能しないというのだ。
きっと、関東学院もそうしたチームとして機能しているのだろう。
ボクは、2人で持てる机を4人で運んで、協力だの、支援だの、仲間だのとほざく学校的言説が大嫌いである。正しいとかどうでないとかではなく、好悪の領域で大嫌いである。そのような仕事を任されるのも嫌いであるし、個人で賄う以外にない仕事をわかちあうのも嫌いである。
昨年は、そういう嫌いな仕事もいくつかやったな。その割りに感謝もされていない。当たり前である。本来そのことに手をかける人の自己評価のプロセスをすべて奪い取ったのだ。価値のない無惨な結末だけが残っている。