国会のセンセイ

先日外回りをしていたら、国会中継が耳に入った。教育3法の論戦のひとつだと思うが、前の文部科学大臣の小坂が質問をしているが、これがけっこう驚くべき内容。これで、文教政策が決定されるのだからとんでもないことだ。
こんな内容だ。

総合的な学習の時間というのは子どもたちが自分のやりたいことを勉強するというのでそれはそれで大事なことなんだけれども、やはり、基礎というか、基本というか、そういうことをしっかりと学ぶことがまず大切だと思うので、その総合的な学習の時間の見直しを、大臣の職にあったときに指示をしたわけです。

まったく勘違いも甚だしい。総合的な学習の時間が生まれてきた経緯を理解せず、教科というのがどんなことなのかを何もわかっていない。
そもそも知識優先、偏重の教育では、例えば、カブトムシのことをよく知っていてもカブトムシがどういうものかを見たことがないといった生活と知識のずれ、つまり、知っているだけでわかっていないという学びの様態が上辺だけに偏ってしまった。そのため、本来、知識によって刺激され豊かに形成されていく心に到達することなく、知っていることを積み重ねた記憶容量とその適用能力だけで、生活力とか思考力、何ごとかに対しての対応能力に欠ける「マニュアル的」な学力が蔓延していることへの政策的対応として導入されたものであることはどこにでも書いてあることなのだ。それをこの勘違いはないだろう。さらに付け加えて書いておけば、総合的な学習の時間は生涯学習時代の学びにおける基礎的・基本的な学び方を身につけるという意味があり、そのため、自らが学習の目的を定めて、自らそれを解決するというこれまでの教科とは異なる方法でのアプローチを行うことや、自らの学習の成果を自らが評価するという(成績を付けるという意味ではない。学習の達成度を自ら考えながら次の課題を見出すという意味である)性格から、教科にはなじまないため、新しい領域として生み出された経緯もある。与えられた学びよりも、自らが創り出す学びを学校に取り入れようとするものだ。これは、まさしく1970年代から進めてきた生涯学習社会の一つの政策的帰結だろうとボクは思っている。
ところが、この前文部科学大臣、子どもにはしっかりと基礎・基本を身につけて欲しいと繰り返し述べている。それは、子どもは「知らない」未熟な存在だと思っているわけで、それを教化してやらねばならないと考えているらしい。しばしば行われている議論には、教育、とりわけ子どもをどのような存在と見るかについての立場を明らかにしない。子どもを大人より下等なものと考えている論客のどんなに多いことか。故に、教えてやらねばならないとしているが、文部科学省の親玉、いや、政策決定者がこの有様である。事情のよくわかった文部科学官僚は、事情のわからないおいぼれ殿様を抱えているようなものであったろう。こういうものに影響を受けてしまうマスメディアと、多くを考えないで我がことだけ大事の親たちがそんなものだと思ってしまうと、いよいよ教育現場は混乱する。混乱の要因は、政策によるものではなく、政策決定者や諮問会議、審議会などの混迷である。
先日も道徳を教科にというという馬鹿げた議論があった。
学校の教育課程は、教科、道徳、特別活動、総合的な学習の時間という4つの柱でできていて、道徳は前教育活動を通じて行われるものとされており、例えば、教師や友だちとのかかわりなどでも道徳的な心情を育てるなどの働きかけもそうした活動の一つなのである。だから、教科ではなく、領域として設定されているわけで、それを教育再生会議のメンバーはどうやら「道徳の時間」のことを指して議論しているらしく、あれでは担当している文部科学省の官僚も苦笑いしながら記録を取っているに違いない。例のヤンキー先生なんか全然そんなことわからないんだろうなあ。あのタイプは、学習指導要領も、教科書も反古にして、体当たりだけをウリにしているはずだ。指導計画さえもことによれば自分で作ったことがないかもしれない。推定で書いてしまっているが、彼がその場所にいる意味は、そういう錯誤を糺す立場にもあるわけで、それができないとしたら、そう推測されるということ。
総合的な学習の時間に対するスタンスで実はその人が教育に関してどの程度の関心や知識経験を有しているかがわかる。困ったことに、門外漢のボクが先生方と話していても奇妙にずれている。ここで書いたことは、ボク自身のエポックではない。どこにでも、当たり前で書かれていることで、いわば、現在の教育のインフラである。
しかし、蛇口をひねれば水はでると思っている人と、水源がどのようなものかを知っている人では、「わかる」どころか「知る」ことですら既に格差を生んでいる。せめて「知る」ことくらいは達成しておけよ。