おぎのやのかまめし

小学校6年生、卒業式がたしか3月20日だったと思う。翌日、そのまま、特急「白山」で東京に向かった。白山は、その前年くらいに特急に昇格したもので、以前の急行列車の時には客車だったが、ベージュの国鉄最新型電車特急に変わったのだと思う。糸魚川まで出て、普通列車から乗り換えた。一人旅である。
線路沿いに住んでいたことと、父が国鉄職員から学校を入り直して教員になった経歴があり、汽車が好きだった。そう、ボクらの感覚では、電車といえば、私鉄のことを指して、国鉄は汽車と呼んでいた。学生の通学も「汽車通」と呼ばれていた。
指定席なんて初めてである。自分の席を探し、必死で網棚に荷物を上げ、どきどきしているとやがて汽車は信越本線に進入。妙高まではスキーに来ることもあって、いくぶん慣れていた。スイッチバックの駅には入らずに通過するのもまたおもしろく、車窓にへばり付いていた。長野を過ぎ、浅間山が見えるようになると、横川の釜飯の準備だ。父はとにかく、必ず買いに走った。うまいのかまずいのか、飛びきりなのか、ぼちぼちなのか、通過儀礼のように買ったものだ。
当時は、まだどこにも駅弁があって、糸魚川にも釜飯があった。これは今でも駅前で売られていて、時々懐かしさもあって買っているが、横川のは特別な感じがあった。東京土産は、横川の釜飯の釜である。そういうこともずいぶんあった。
そうだ、じいちゃんがボクのために自転車を担いで東京から運んできたときもそうだったかもしれない。せっかくの自転車だったが、運動神経の鈍いボクには全くどうにもならず、じいちゃんが悲しげにしていたのを思い出す。その無理がきて、年暮れを待たずに亡くなった。そのときもじいちゃんは2つの釜を持ってきたような気がする。往復分なのだろう。ボクは何だかそんなものを喜んだりしたのかな。
必ず買わなきゃ。汽車の停車時間はそこそこある。先頭に登坂用の機関車を付けるのだ。それでもどきどきしながら、お金が足りるのか、何て言えばいいのか、足下をふるわせながら買ったのだろう。よく覚えていないのだ。よほど、上気していたに違いない。小さな出入り口からどうやってホームにおりて、きっと並んで買ったんだろうが、何も風景に残っていない。
白山が動き出すと、ようやくふたを取った。案外こういう食べ物は苦手なんだ。しいたけも筍もダメ。だけど、ゆっくりと、少しずつ食べた。雪はすっかり姿を消して、次第に陽光が目映く輝き始めた。
今は、高速道路で食べることができる。

2週間前の画像。何だか、いろんなことを思い出して、食べながら涙が出てきた。じいちゃんの気持ちまで思いだしたら、横川SAのスタバの横の日だまりですっかり嗚咽してしまった。彼女には何のことかわからなかったろうが、話すとまた泣きそうになって、感づいたのか、彼女も聞こうとしなかった。