アウト・オブ・ロー

先週末、T県T市の公園で発覚した強毒性鳥インフルエンザによるコブハクチョウの死。渡り鳥による感染ということになるとあらゆるところに戸は立てられず、しかも隣接する石川県は鶏卵の出荷の多いところでもあって、さまざまなところに波及する事態となっている。そうかもしれないというのが、実は、そうであることよりも厄介で、例の不在証明という困難さがどうしてもつきまとう。これだけ厄介な様子になってくると、さあ、政治は、行政はと注目していたら、T市議会の今日の話題は、議長の不信任案可決のニュース。
T市の議会議長は最大会派のJ党から選出され、慣例で1年ごとに辞職して交代することになっていたそうだ。ところが、今の議長は議員年金改革が全うされていないことを理由に辞職を拒否、というのか、元々辞職に追い込まれる理由がないので、慣例を蹴って辞職をしなかった。すると、最大会派のJ党は、議長が徒に市議会を混乱させたことで市民の信頼を損ねたことを理由に不信任案を提出し、今日それが可決されたというのだ。議決には拘束力がなく、議長はそのまま職に留まる様子とも報道されている。
危機に面している市の立法府が一体何をやっているのだろう。慣例はともかく、その慣例そのものが1年ごとに議長を辞職して、いわば議長という名誉をたらい回しにするという「市民の信頼を損ねる」ものであり、同時に、今ここで内輪の約束事に過ぎないものを楯にしての不信任案の提出と可決は議会政治を愚弄するものとしか思えない。T県では、与党M党の議員が極端に少なく、旧態然とした以前のままのJ党の議員が多数派だ。変革しつつあるJ党の様子とは異なり、未だに以前の政治状況、体質を引き継ぎ、そこに戻ろうとする人々によって理念を共有されている。これが衆参以外の国政と地方のねじれであると、ボクは思っていて、そこのところを地方がどう請け負うのかがはっきりとした課題であると認識すべきだとずっと思う続けているのだが、今回の呆れた議会運営は、いよいよその思いを強くした。
もう一つ、奇妙な出来事に惹かれた。
どこか、関西の方だったとしか記憶がない。校庭を芝生にしようという考えが方々で展開しているのは周知のことで、芝生化することによって、子どもたちが思い切り体を動かせる環境が作れるというのは、もう社会的に認知されているように思っていた。土のグラウンドは練兵の名残で、もうそんなものからも卒業してしまおうという考え方は、完全に多数派だろうと思っていた。ところが、ある中学校の芝生化された校庭で、ある日、保護者の一部が重機を持ち込み、芝生をはいでしまった。表面がでこぼこして野球とソフトボールの練習にならないというのだ。
日本の球場の多くは、内野には芝がない。動きの激しい内野では、芝の管理の側面が強いとか聞くが、メジャーリーグでは概ね内野も芝になっている。野球の始まりはクリケットという説もあるようで、それなら全面芝があたりまえだ。どうしても不都合な部分の芝だけを剥いだというのが本当のところだろう。この天然芝に対応できずに、松井稼頭央は体たらくを繰り返したのは、多くの人の記憶に残っているところだ。世界標準になるには、まず、内野の芝生は欠かせない要素だろうと思っていたのに、まさか芝生を張って欲しいという要望ではなく、はがしてしまうという暴挙があるとは思えなかった。
やり方が荒い。とにかく、重機で剥がしてしまうというのだから、前後見境がない。自分たちの秩序や考え方に承伏しないものを押しつぶしてしまおう、既成事実を作ってしまおうというやり方だ。
いつから、私たちは判断を失ってしまったのだろう。判断の基準となるものは、道徳もあろうし、倫理もある。いや、そのことよりも法や令、規則を挙げるまでもなく、議論のためのルールだってあるだろうし、なければ構築するしかない。それが、ボクらの社会が作ったローだと思っている。
アウトローというのは、抑圧された社会の歪みを露わにする装置だとばかり思っていたのだが、自らローをねじ曲げてさえも押し切る暴力だと、意味が変わってしまったのかもしれない。