姫川温泉・瘡の湯

2月とは信じられないほどの小雪と暖気。厳しい寒さは冬の入りがけだけで、すっかり暖かい冬になってしまっている。
スキーに行くと話したら、「山に雪あるんですか?」と聞かれることがある。あなたが見上げている山々が白く輝いているのは一体なんだろうと問い返したいものだが、わが身の周りに起きていることに判断がとらわれて合理的に考えられないのは、とりまきが社会を動かすことがあるのを見ても明らかだろう。
雪が重く、クロカンでもと思いながら諦めて温泉にした。先日通りかかったらどうやら営業を始めたらしい姫川温泉の瘡の湯に行くことにする。
姫川温泉は、越後と信濃の県境を姫川を挟むように佇む。大糸線の平岩駅は糸魚川市にあり、対岸のいくつかの温泉宿は小谷村になる。フォッサマグナの西端に位置するこのあたりは、温泉が多く、しかも、泉質がさまざまで大きな温泉街を形成するところはないものの個性的な一件宿が点在する。その中で、比較的大きな温泉地になっているのが、姫川温泉だ。塩の道の山越えの途上にあるため、元々街道宿もあったせいか、宿もあり、すっかり廃れてしまったが以前はお土産物屋さんなども軒を連ねていた。昭和40年代には、ここから大所川を遡った場所に、宝生スキー場があり、実は、そこが僕が生まれて初めて訪れたスキー場だ。今は、どこにあったかも定かではない。確か、木地屋の集落で宿泊した記憶があり、夕暮れになっても宿に着けず、集落の外れの小さな街灯を目印に歩き続けた。まだ、学校にも行っていなかった。
白馬岳にもここから登った。ボンネットバスに揺られて未舗装の道路を登りつ、曲がりつし、顧問はすっかりバスに酔ってしまった。おかげで目的地に到達できず、雪渓でビバークした。
思い出が長くなった。
当地にある白馬荘や朝日荘も、何度か訪れている。硫黄臭の強いよく温まるお湯もさることながら、今となるとレトロ感がたっぷりの宿の佇まいが味わい深い。間近に見える姫川と大糸線がまた情緒を高めているのもいい。朝日荘は明るい浴室で、本当に目の前を鉄道が横切る。平成7年の豪雨から蘇った鉄路をディーゼル列車が走る。白馬荘は今時珍しい混浴の大浴場を持っている。大きな岩を抱え込むように誂えられた浴室は、岩陰で身を隠すこともできる。いずれもあふれるお湯に包まれる素晴らしい味わいなのだ。いずれも、露天風呂があり、こちらもよいそうだが、まだ、味わったことがないのが残念だ。
訪ねるたびに、隣にできているコンクリートのモダンな建物がいつオープンするのか不思議に思っていた。先週になってどうやら営業を始めたらしいと気づき、すでにブログでそのことを書き出している人がいた。営業時間も、定休日も決まっていないという。
暖かい曇り空は信州に近づいてもかわらないどころか、いよいよひざしが強く暖かくなっていく。温泉の前の斜面はすっかり雪がなくなり、フキノトウが出ていても不思議はない。
建物のまえにはいくらかのクルマがあり、どうやら営業しているらしい。内装の木の香りが残る。まるでどこかのお宅のリビングのよう。ソファと畳のスペースがある。しきりに世間話をしているのが、女亭主らしく、受付の部屋ではなく、休憩スペースでお客さんとコミュニケーションしているらしい。600円払うと、お風呂は奥と案内される。
暖簾がかかり、男湯、女湯の別はきくが、どうしたことか入口の引戸に、男とフェルトペンで書いてある。案外、建具屋の都合かもしれない。脱衣所は狭い。ロッカーも鍵付きのがあっていいのだが、鍵に簡単なキーホルダーしかなくこれでは浴室に持ち込めない。しかたなく、そのまま入浴。新しい垢抜けた設計と、どこか間が抜けた誂えが、温泉の味わいを深めている。
浴室は、天井が高く、コンクリートの打ちっぱなしでありながらあふれる湯量、かけ流しの暖気で程よくミストが舞う設計。夕刻のひかりが差し込み、斜光が美しい。ただただかけ流されたお湯がずんずん流れ込む。温度調節は湯量のみ。赤茶色の粒が見えるが、透明のお湯。温度計は45度を指しているがそこまではない。しかし、比較的熱い。それでもすぐに肌に馴染んでやがてゆったりと浸かる。肌にそのまま染み込むようなお湯。すこぶる名湯である。上がっては浸かる、上がっては浸かるを繰り返す。
窓の外をディーゼル列車が走る。後から確かめると、これで糸魚川行きは夜までない。地域の足というわけにはいかないようだ。山の端の光を背景に姫川を渡る列車は被写体には格好だが、カメラを車に置いてきた。もっとも、浴室に持ち込むわけにもいかず、目に焼き付けた。
湯船に腰を下ろす男性の背中に斜光が眩く当たる。絵になる。男の裸体が美しく見えるお風呂は初めてである。温まる。くつろぐ。音もいい。湯の音が静かに響く。
上がってもいくらも汗が吹く。珍しく上着を脱ぐ。タオルで汗を拭く。蜜柑を勧められ、お茶が出てくる。まったく、どこかの家でくつろいでいる感じがする。
ソファに座って差し込む日を浴びていると、向こう側で別の客と女亭主が話している。
ここは元々旅館があった。自分たちはそこの客だった。平成7年の水害の影響もあって、糸魚川に移ってホテルを経営したが、県境をまたいでお湯を運ぶことはできず、いろいろあって廃業。ここも後継者がなく、自分たちが買って維持することになった。源泉は、白馬大仏のところ。送湯菅は川をまたいでいて、両方の県に何かの費用を払っている。営業時間も、定休日もゆっくり決めていくつもりだ。
そんな話である。
200円でカップヌードルが売られており、百均で買ってきたものが間に合わせにそこらに並ぶ。モダンでよく考えられた建物の設計と、実はまだ工事中の部分もある奇妙な取り合わせに、最高のお湯という組み合わせが、僕好みとも言える。素人感がいつまで続くかは、ちょっと心配だが。
朝日荘、白馬荘、国富も併せて、また、このおんせんちが好きになる。トンネルをもう少し信州寄りに進むと猫鼻の湯もある。信州に入れば直に、来馬温泉、島鉱泉。大所川を山に進めば蓮華温泉。まさにここらは温泉まみれの味わい深い土地である。