寄藤文平さんの本

デザインの本やらイラストの本など自分には無縁とおもっていたのだが、実は、文字も絵も表現という枠組みの中で扱わないわけにはいかないとも思えて、時々立ち読みする。
数年前からイラストを描く仕事も入ってきて、商売がかっていないことが売りなので作為的にならないようにしているけれど、寄藤さんの本に出会うたびに、自分の仕事にはっきりした形が持てることを実感する。

ラクガキ・マスター 描くことが楽しくなる絵のキホン

ラクガキ・マスター 描くことが楽しくなる絵のキホン

21世紀美術館ミュージアムショップで購入。これ以降、自分の仕事を落書きと表現することになった。こうやって面白がってしまえばいいのだなとはっきり自覚できた本。方法論的なアプローチに行き詰まるとこの本を開く。

絵と言葉の一研究 「わかりやすい」デザインを考える

絵と言葉の一研究 「わかりやすい」デザインを考える

こっちは最近入手した本。どちらかというと表現とは何か、何を表現するのかといったあたりを考えさせてくれる。落書きとは何処か哲学めいた問いかけが先行するように、このところは思っていて、それゆえ自分のやり方に合ってくるのだろう。

よくよく思い出すと、今年初めての新刊本の購入であった。

日本一周3016湯

買い物のついでに紀伊国屋に寄る。経済的な事情もあって本屋な危険なのであまり立ち寄らないことにしているのだが、とりわけ、紀伊国屋のような本屋は剣呑極まりない。際限なく欲しい本が現れて、諦めるということしか残らない。

日本一周3016湯 (幻冬舎新書)

日本一周3016湯 (幻冬舎新書)

会社を退社して日本一周して温泉に入りまくった人の本。こういう本で気になるのは、自分の周囲のお風呂がどんな評価をされているだろうかというあたり。人それぞれの感じ方を知るのは、自分の感じ方を深めるにも好適なふるまいだ。
あれっと、思ったのはどうしてだろう。結局、いくらか眺めて買っていないのだが、帰ってきてからこういう人はブログの一つもあろうと探してみると案の定見つかった。なるほど、違和感の正体は、僕にすればあるはずと思っているものがないからなのだ。どうも北陸あたりはあまく見られたらしい。
白馬鑓温泉みくりが池温泉は日本最高所の温泉だし、糸魚川市には数多くの温泉があるものの立ち寄った気配は薄い。通過はしたが、彼の心を動かす湯はなかったか、あるいは、山は得意でないか。蓮華温泉黒部峡谷の黒薙や鐘釣、名剣などの温泉は触れられていない。残念だが、総べからくというわけにもいかないので、仕方のないことだろう。
ということは、3000も入れば相当な数だろうと思いながらも、そんなものはまだまだこの国の温泉を網羅するには全く足りないということだ。改めて、温泉の豊かさを感じる。
この本のエポックは、ひとつの温泉地でも複数の旅館やお湯に入っている。実は、温泉をどう扱うかはそれぞれの施設でかなり違う。よいお湯も扱いを間違えればまったく良さを損ねてしまう。特に、源泉の湧出量と湯船の大きさのアンバランスがひどいお湯を生み出した。バブルの影響がそういうところにも現れている。
適正な大きさで十分に湯を味わえる。そういう場所なら、シャンプーがなかろうが、シャワーがなかろうが、脱衣所がさむかろうが、まったく平気である。そういう態度においては、自分に似たところがあるのだろう。
悔しいのは、小川温泉に入りながら露天風呂に行っていない。こいつ、10分歩くのさえ躊躇するとみた。

焼山温泉

糸魚川市には多くの温泉があり、それぞれの泉質が異なることが知られている。そのうえ、なかなか個性があってそれだけを回っても十分に楽しめる。
傍に噴煙がある蓮華温泉の野天。豊富な湧出量を惜しげも無く掛け流しにするところがあるかと思えば、塩分や油臭を感じさせたり、重曹がたっぷり含まれる温泉など、味わいは広がる。
中でもお気に入りは、早川の上流にある焼山温泉だ。何かが特別というわけではないが、硫黄臭のある炭酸水素塩化物泉。それはけっこうどこにでもある。湯が優しいのだ。湯船は屋内に2つ。一つは源泉掛け流しで、いくぶんぬるめの湯。一つは、ペレットを使って加温した大きな湯船。檜の露天は、同じ湯を引いている様子。お気に入りは、このぬるめの源泉。湯の花がおびただしい量浮いていて、いかにも沁み入る。
今日も長湯した。
この谷に来て、晴れていたことがない。今日も、海沿いは晴れていて、ここは土砂降りだったらしい。それゆえ、冬の積雪も半端ないとのこと。
山スキーで訪ねたいのは山々なんだが。

わからないことがいくつもある

北陸新幹線金沢延伸開業まで半年になって、開業プレイベントがあちこちで始まっているにも関わらず、まだ、よくわからないことがいくつかある。観光はともかく、経済や流通もふくめた生活がどうなるのかが見えてこない。
列挙してみた。

  • 新幹線のダイヤがどうなるのか。現状の東京到着時刻を確保したうえで、具体的にどの程度の時間的余裕が生じるのか。電車に乗っている時間よりも、時刻である。
  • 金沢までに乗り入れが短縮される大阪、名古屋へのアクセスについて、現状と重ねて利便性がどれだけ確保されるのか。乗り換えが生じても乗り換え時間を含めて全体に短縮効果が出るのかどうか。これも、時刻の問題。現在、名古屋で最も遅いしらさぎに乗車すると富山に到着する時刻が新幹線でも運行な可能なのかどうか。すなわち、夜11時台に富山着の運行があるのかどうか。
  • 在来線について運行密度や運行に使われる電車はどうなのか。輸送密度をしばしば話題にしているものの、それだけに応じた列車では常に満員電車ということにもなる。電車の利便性と同時に快適性も考慮しなければ、電車の利用を選択しなくなる。それでなくても、北陸の人は歩いたり、立ったりしたがらない。
  • 在来線とJRの枝線の間の運行がどのように連携するのか。切符の販売や乗り継ぎではどのような約束ができるのか。例えば、枝線から三セク、そして、別三セクに乗り継ぎの料金が気になる。
  • ICカードの相互利用がかのうなのか、どうか。これは、今のところ、あいの風以外は採用しないと言い切っているので、あいの風の中だけの利用。JR枝線との間では面倒な動きが予想される。

などと書いているうちに、何にもはっきりしていないことにイライラしてきた。
どうしたものか。この説明責任は誰にあるんだろう。県民が待ち望んだという時代にどんな生活が生まれるのか。実は、来年春の旅行の計画さえはっきりできないのだ。

Jを見よ!

W杯の情けない代表の戦いの一方で、スタンドを清掃するサポーターの姿が映し出され、さすが日本と賞賛しきりである。酷い話だ。そんなことが話題になることが、たまらなく悔しい。ゲームが中心だろうと、そういうことではない。Jでは当たり前に行ってきたことなのだ。それがことさらワールドクラスのふるまいであるかのような称えられ方は、まったく屈辱である。
ふだん、サッカーを見ない人たちがこのときだけサッカーを、いや、日本代表を見る。日本を応援する。WBCでもそうだ。こういうときだけ見ている人たちの多くは、戦う日本を見ているだけであって、実はサッカーは手がかりに過ぎないのではないのか。スポーツの背景や根底にある文化をないがしろにされていることについて屈辱的だと感じるのだ。
それで、この期間、ゲーム以外のサッカーの報道は見ない。ジャニが司会の番組など、滅相もない。みんなJを見ようよ。

観光客向けなんてまっぴら

新潟県糸魚川市ジオパークの呼び名を最初に使い始め世界概念にまで高めた街である。その意味では、オリジナルというこだわり方があるのかなとも思えるが状況は少し違う。
北陸新幹線が金沢まで延伸される来年春に向けてえんせんではさまざまな反応があり、その多くが観光開発をして多くの人を呼び込みたいとする、いわば、交流人口の増大に向けた地域振興を行っている。そのせいか、食べたことのない食べ物や子ども騙しに近いおもちゃを組み合わせたニワカ特産、名産、名物が現れている。どうやら、ここ数年続いた地域グルメの発展系らしいのだが、雨後の筍のようににょきにょき出てくるゆるキャラ並みに、地域の文化的成り立ちと乖離していて気持ちが悪い。
糸魚川市は、まず、視点を地域の中に定めた。自分たちの中にある特徴的なものを整理して、自分たち自身が大切にしてきたり、生活に隣接したものを大切にしようと考えた。と書きながらも、糸魚川ブラック焼きそばなんかはそうでもないなと、、このテーマで書き始めたことを後悔している。
これなのだ、書こうと思ったのは。

糸魚川蕎麦屋に置かれたヒルツブ。どうやらアサツキの球根らしい。ちょっとした食べ物屋にはたいてい置いてあって、薬味や肴に食されている。ところが、どこにいっても、これが何かという表示がない。ということは、まったく当たり前のように生活に含まれている。何も宣伝されていなくても、訪れる人々はそこに土地のようすやくらしを感じて、その価値を認めている。
これが地域リソースである。そういうものを商品としていくところに力をかければいいのに、新しいものを作らないとひとは興味をもたないと、次々にさまざまなものを洗練させることなく更新し続けてきたのがこの社会の姿だろう。地場産のものの取り扱いがよくなってきたと思っていたが、東京スカイツリーにさくねん押し寄せた4000万人を超える人々の姿に愕然とした。こういう社会の空気のシンボルなのだろう。
小谷村の道の駅には土地のものが並ぶ。いいもの、好きなものもあればそうでないものもある。それでも、訪ねた人に土地の姿を示して味わってもらう。そういう場所に、僕は行きたい。
もう十年以上前になる。そばを売り物にしたある土地で、せんれんされたそばを食べさせるお店があって、おそばはうまいし、店の佇まいもよいのだが待合にCDで音楽が流されていた。店内には、音楽は流れていない。タバコを遠慮してくれ、携帯はやめてくれ、写真を撮影するのも勘弁して欲しいと書かれて、そばの味わいに集中できるようにということだ。静かなクラシックだったように記憶するが、まったく辟易した。土地の音や店の賑わいや調度が出す音に耳を寄せていればいいのにと、当時持っていたサイトに書いたら店主から抗議がきた。営業するとは大変なのですと書かれていたが、店で流す音楽でさえ客と意図がずれていることをあまり自覚されていない様子で残念に感じたことがある。何かに擦り寄ろうとして元々の価値を損ねているわけだ。さすがに、今はそんなこともなかろうと思うけれど。
「観光客向け」というのは結局誰の気持ちにも寄り添えない。そういうことを書きたかったが、いろんなことを思い出してぶれてしまった。

若者とコンビニ

国民年金の納付がコンビニでもできるというアピールのため、コンビニ各社といっしょに大臣が広報活動を行っていた。そこで、小泉という政治家が、若者はコンビニに行かない日がないという発言をして、ことさら若い世代とコンビニを結びつけようとしている。まったく世間知らずとはこういうことだ。
このニュースでの違和感はまず、将来を担保してくれない年金を義務といって誰が納めるのかというところに発しているが、そこは最早年金が若い世代のインセンティブを何も引き出さない点も含めてコンビニが生活のどんな場所にいるかがわかっていない。
夕刻のコンビニには、実は、年配の世代も少なくない。近所の店が少なくなって郊外の大型スーパーばかりになった田舎の現状では、コンビニは買い物のチャンネルとして重要な位置を占めている。商品のラインナップにも当然その状況は反映されていて、おでんなど自宅で作る方が大変という家庭は珍しくもない。ちょっとだけ、少しだけ、このくらいでいいやという年配者の生活スタイルに適合しつつあるのだ。小泉はコンビニは飲み物やジャンクフーズを買うところと思っているのだろう。こいつも、やはり、旧い体質の政治家だったか。